バルセロナは15日、アルゼンチン代表FWセルヒオ・アグエロの引退会見を開いた。
10月末に心臓の不整脈が見つかったアグエロは、やはりスパイクを脱ぐことを余儀なくされた。バルセロナの本拠地カンプ・ノウで行われた引退会見で、アルゼンチン代表FWは最初から涙が止まらず。目からボロボロと涙をこぼし続けながら、次のように語った。
「今、僕がここにいるのは、あなたたちにフットボールのプレーを止めると言うためだ。僕はプレーを止めると決めた。今はとてもつらいけれど、それと同時に決断を下せたことを幸せだとも思っている。第一にあるべきは命だから。あなたたちは、なぜ僕がこうした決断を下したのかを、もう知っているはずだよね。1カ月とちょっと前に抱えた問題のためだ」
「僕は素晴らしい医師たちから処置を受けていた。そして彼らにプレーを止めるのが最善と通告されたんだ。決断を下したのは10日……、1週間前だ。少しでも希望が残っているのかどうか、可能な限り模索はしたんだよ。でも、そんな見込みはなかった」
「自分のキャリアを誇らしく思う。5歳で初めてボールに触れたときから、フットボールをプレーすることを夢に見始めた。ヨーロッパまで到達するなんて考えてもいなかった」
「全員に感謝をしたい。自分を育ててくれたインデペンディエンテ、次に18歳の僕に信頼を寄せてくれたアトレティコ……。シティにいる人たちは、自分のクラブに対する気持ち、できる限りをしたことを分かってくれているよね」
「そしてバルサの人たちへ……。素晴らしいよ。世界最高のクラブの一つにやって来たことは分かっていた。すべては必然的に起こっていく。そしてアルゼンチンは僕が何よりも愛するものだ。僕の家族、僕と一緒に働いてくれた人々にも感謝をしたい」
「僕は仲間たちを助けるために全力を尽くしてきた。顔を上げて、とても幸せに、僕はここから去るんだ。たくさんの人たちが僕を愛してくれている。ここに駆けつけてくれた記者たちにも大きな感謝を。自分に優しくしくれた記者たち、ひどい扱いをした記者たちにもね。それが彼らの仕事なんだから」
アグエロはまた、引退を決意するまでの過程についても説明した。
「今、体の調子は良い。最初の2週間はきつかった。病院で、最初に身体を検査したとき、彼らから呼び出されてプレーを続行できない可能性が大いにあると言われた。それから心構えをすることになったんだけど、やっぱり簡単じゃなかった」
「もう決定的にダメだと言われたとき、飲み込むまで数日を必要とした。まだ希望はあると思っていたけれど、でもその後に冷静に考えてノーだってなった。難しかったよ」
「僕は33歳でこうした経験をすることになった。もっと若いときじゃなくてね。僕は自分の築き上げてきたキャリアを誇り高く思っているし、今になってこういうことが起こったのは、不幸中の幸いだと感じている。自分の歩んできたキャリアを振り返ると、本当に、本当に幸せだった」
その一方で、自身の記憶に深く刻まれたゴールや出来事も振り返っている。
「インデペンディエンテで、ラシン相手に決めたゴールはとても素晴らしかったね。ラシンに何か恨みがあるわけじゃないけど、17歳で決めたとても素晴らしい初ゴールだった。あとアトレティコでヨーロッパリーグ優勝を果たしたのは本当に幸せな瞬間だったし、誰もが知るQPR相手のあのゴールだってもちろんそうだ。あれでシティと僕は初めてプレミアリーグ優種を果たしたんだよ。そして最後の素晴らしい瞬間は、もちろんコパ・アメリカだ。僕は2〜3試合でプレーしたけれど、とてもとても幸せだった」
アグエロがキャリア最後に決めたゴールはバルセロナで決めた唯一のゴールでもある。それは、レアル・マドリーとのクラシコで決めた1点だ。
「最後のゴールがマドリー相手にものだったなんて、悪くない。悪くないね。素晴らしい瞬間だった」
「33歳で問題が見つかって、ここで話をしているのは悪くない。もっと前ではなく、今起こってくれて良かった。僕はこれからも間違いなくフットボールとつながり続ける。でも今は少しゆっくりしたい。フットボール以外で幸せになれるようにがんばってみるよ。選手たちは分かっているものなんだ。これまで楽しんできた瞬間は、いつか失われるんだって」
インデペンディエンテでプロデビューを果たしたアグエロは、2006年にアトレティコ・マドリーに加入してヨーロッパリーグ優勝などを経験。2011年に加入したマンチェスター・シティでは5度のプレミアリーグ優勝などに貢献して、そして今夏の移籍市場でバルセロナに加わっていた。キャリア通算記録は786試合427得点で、合計21タイトルを獲得。
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