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【コラム】7年間で5度の日本一、最強ホークスを築き上げた名将・工藤公康に贈る感謝の言葉|プロ野球

【コラム】7年間で5度の日本一、最強ホークスを築き上げた名将・工藤公康に贈る感謝の言葉|プロ野球時事通信
【プロ野球 コラム】福岡ソフトバンクホークスが、工藤公康監督の退任を発表した。在籍7年間で5度の日本一に導いた名将の功績を、ホークス取材20年目となる田尻耕太郎氏が振り返る。
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野球の神様も泣いた最後の夜

試合開始の頃には降っていなかった雨がグラウンドを濡らす。ZOZOマリンスタジアムの空の上で、野球の神様が泣いていたのだろうか。

10月25日、ホークス工藤公康監督は7年間のラストゲームを勝利で飾った。試合後、三塁側ベンチ前ではささやかな“セレモニー”が実施された。サプライズで孫正義オーナーから大きな花束を受け取り、ナインが集まっての即席の記念撮影も行われた。大勢の仲間たちに囲まれて満面の笑み。少しテンションが高く映ったのは、ちょっとでも気を抜くと感涙がこぼれ落ちてしまうからだったのかもしれない。

そして、選手たち、コーチ陣、スタッフ、沢山のファンに見送られて一番目にグラウンドからベンチの奥へと引き揚げていった。いつもと逆だった。工藤監督は、勝っても負けても試合後には選手とコーチ、スタッフの全員を労ってから、誰よりも最後にベンチを後にした。これが本当に最後なのだ。あの時、泣いていたのは野球の神様だけではなかっただろう。

転換期となった2016年のV逸

それから2日後の10月27日、福岡のPayPayドームで退任会見が行われた。

プロ野球の通常の会見といえば、20分間もあれば「かなり喋ってくれたな」という感覚だ。ただ、どんな時だって丁寧な取材対応をしてくれた工藤監督だ。冒頭の挨拶から質疑応答、その後の囲み取材まで合わせ1時間強もラストメッセージを届けてくれた。

「幸せな7年間を過ごすことができて、野球人として、たくさんの方々に支えて頂いたことを、ここに感謝申し上げたいと思います」

感謝。その言葉を何度繰り返しただろうか。

「僕にとっては選手がすべて」

7年間で日本一5度、リーグ優勝3度を成し遂げた名将だ。しかし、反省もあった。その悔いが自身を変えたと振り返った。

「(就任初年の)15年に優勝した時、正直調子に乗ったところもあったと思います」

16年はシーズン前半で独走態勢を築きながら、11.5ゲーム差をひっくり返されてV逸した。一部でチームの内部分裂などと書き立てられ、その当時工藤監督は大きなショックを受けていたとチーム関係者から聞いたことがある。だけど、その声と向き合った。

「選手に求めるだけではダメ。自分が変わらないといけない」

17年にリーグ優勝、そして日本一を奪還した。数多くの勝利を味わってきたが、「もともと泣くタイプじゃない」と言っていた工藤監督が嬉し涙にくれたのはこのシーズンだけだった。

「監督という仕事はえらいんじゃなくて、みんなと共にあるとの考えを僕の中にしっかりと芽生えさせてくれた」

深い感謝の意を伝えたのは選手に向けてだけではなかった。

コーチやチーム裏方のスタッフはもちろん、球場で従事する警備員やグラウンドキーパー、栄養士や食堂の方たちへの想いも会見の中で口にした。なかでもグラウンドキーパーは我々報道陣が見える場所にいるため接点が多い。チームが遠征から帰ってくるたびに、工藤監督が彼らに手土産を用意していたのをいつも見ていた。

選手を思うからこその厳しさ

また、工藤監督といえば、キャンプ中の“工藤塾”が有名だった。とにかくハード。選手たちは毎日苦悶の表情で必死に食らいついていた。

「自分が長く現役をやって来たのもある。その中で、志半ばでやめていく選手も沢山見てきた。だからこそ選手には1年でも長く、ユニフォームが着られるために必要なことを伝えていきたい」

その考えは監督在任中に何度も聞いた。だからこそ、厳しい練習メニューを課してきた。選手が成長していく姿、活躍して素晴らしい結果を残していくのを見るのが「幸せだった」と優しく微笑んだ。

チームの大黒柱であり、日本球界を代表する投手となった千賀滉大もその一人だ。工藤監督が就任した15年はまだファームで過ごす時間の方が長かった。その年の秋季キャンプでは「指定強化選手」として鍛え上げられた。いわゆる「工藤塾」だった。

「毎朝、全身が筋肉痛でベッドから起き上がれなかった」とあの頃、千賀は苦悶の表情で話していた。千賀はその翌年から今シーズンに至るまで、6年連続2桁勝利を達成した。球団では福岡移転後初の快挙で、現役時代に通算224勝をマークした工藤監督さえも「僕も5年までだった。本当に素晴らしいこと」とその活躍を称えていた。

厳しさは、愛情の裏返しだった。

選手のことを第一に考える。試合終了後にベンチで労をねぎらって見送る姿もそうだが、その後に行われる囲み取材の場で選手を責めることはまずしなかった。

「ピッチャーは打たれる時もありますよ。変な言い方だけど、打たれるのも仕事なんだから」

「あと一本出れば…と言いますが、毎回出ていれば全部勝てるでしょ(笑)。チャンスを作ったことが大事なんですから」

投手にも野手にも平等に気を配った。

幸せな7年間をありがとうございました

7年間の監督生活に別れを告げる。そういえば、就任会見を行った2014年の秋、その翌日に佐賀県の唐津市に向かった。ダイエー時代の弟分である故・藤井将雄投手の墓参りをするためだった。あの時「監督になったよ。俺、やるけん」と墓前で誓った。その後も毎年オフになると、必ずシーズンの報告も行っていた。

「今回も落ち着いたら行きたいと思っています。(コンディショニング担当で昨年逝去した)川村君のところにも、(今年逝去したチームスタッフの)川根さんのところにも行きたいと思っています」

藤井さんは、天国から工藤監督にどんな言葉をかけてくれるのだろうか。

「アイツが何より強いホークスを望んでいた。ひょっとしたら辞めたことに関しては怒られるかもしれない。だけど、またしっかり成長して頑張るよという報告はしたいと思います。まあ多少は、僕のことも『よくやった』と褒めてくれるかもしれないけど、行ってから、いろいろ話をしてみたいと思います」

在任7年間でレギュラーシーズンは978試合558勝378敗42分、勝率.596を誇った。さらに短期決戦には無類の強さを見せて、ポストシーズンは16連勝(19年ファーストステージ第2戦から昨季日本シリーズまで)の記録を保持したまま、一旦ユニフォームを脱ぐことになった。

「幸せな7年間を過ごすことができました」

工藤監督に、我々も同じ言葉を送りたい。強かったホークスをさらにもっと強くしてくれた。強いホークスのおかげで良い思い出をたくさん作ってもらった。今年は苦しかったが、今のプロ野球はどの球団も「打倒ホークス」を掲げてチーム作りを行っている。球界全体のレベルアップ、面白いプロ野球界の発展に工藤監督は大きく貢献してくれた。

本当にありがとうございました。我々からも数々の功績に、感謝の意を示したい。

文・ 田尻耕太郎

1978年生まれ、熊本市出身。法政大学卒。ホークス球団誌の編集を経て、2004年夏にフリーに。一貫して「タカ番」スタイルの現場主義を大切に取材活動を続けており、2021年にちょうど20年目のシーズンを迎えた。「Number」など雑誌・ウェブ媒体への執筆のほか、ラジオ出演やデイリースポーツ特約記者も務める。

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