育成ドラフトから初のメジャーリーガー誕生なるか
11月10日、千賀滉大投手が海外FA宣言選手として正式に公示された。かねてよりメジャーリーグ移籍を熱望していた右腕が夢舞台に向けて大きな一歩を踏み出そうとしている。この移籍が実現すれば、育成ドラフトでプロ入りした選手から初の大リーガー誕生が確実となる。
今年も10月に行われたドラフト会議では、全12球団が育成ドラフトにも参加。計57選手が指名を受けた。この制度が導入されたのは2005年ドラフト会議より。その第1回当時に指名されたのはわずか6名のみ(4球団)だった。
千賀がドラフト指名された2010年には29名まで増えていたものの、それでも現在の約半数でしかない。また、その年は参加球団も8球団で、まだ育成選手の保有に二の足を踏むチームも少なからず存在した。
育成から球界を代表するエースへ。
千賀は、誰も通ったことのなかった道なき道をひたすらに進み続け、偉大なる功績を残し続けた。それが道しるべとなり、球界を突き動かしたのではなかろうか。
つまり、千賀の成長記録は球界の財産であり、未来へ語り継がれるべき最高のモデルケースなのだ。
ホークス入り直後からいきなり味わった“挫折”
球団提供
愛知県出身。中学から高校入学後も続いた成長痛の影響で出来る範囲で投手をしていたが、10代半ばの頃は満足に野球に打ち込むことはできなかった。高校2年生になってようやく落ち着き、ようやく本格的な練習を開始。高校3年生の夏は県大会3回戦で敗退。背番号1を背負っていたが、最後の試合はレフトでのスタメンだった。
そんな千賀を発掘したのは愛知のスポーツショップの店主だったというのは、今では有名なエピソードになった。紹介を受けたホークスのスカウトが「特に肘の使い方が柔らかく、かなり素晴らしい素質」と評価したことで、育成ドラフト4位でのプロ入りとなった。
ホークスではいきなり“挫折”を味わった。まだユニフォームも着る前の新人合同自主トレでの話だ。同期の大卒ドラフト2位の選手がブルペンに向かうと146キロを計測した。千賀は高校で最速144キロの触れ込みだったが、実際には130キロ台がほとんど。なにより、そのドラフト2位は外野手だったのだ。
「年齢は違うけど同じルーキーなのに、しかもピッチャーでもないのに……。とんでもない世界に来てしまった」
ただ、千賀はのちにそれを笑って話すようになる。その外野手こそ柳田悠岐だ。
「今では誰もが知る“バケモン”ですけど、あの時はそんなこと分かりませんからね。あの時はショックだった」
千賀を作り上げた半年間の徹底したフィジカルトレーニング
ただ、それでも自分の立ち位置が一番下であること、千賀本人の言葉を借りれば「ドンケツのビリのビリ」の自覚は常にあった。
千賀を含めた高卒1年目の投手たちは、入団してしばらくボールを触らせてもらえなかった。当時ファーム本拠地だった雁の巣球場に行くと、彼らは常に何らかのトレーニングをしていた。特に腹筋をよくやっていた「一日1000回」がノルマだったという。遠征先のナイターでも試合後のホテルで廊下に並んで、うめき声を上げながら上体を起こしていたらしい。
約半年後、夏になってようやくキャッチボールの許可が下りた。喜び勇んで右腕を振ると、投げた本人が目で見て分かるほど球が速くなっていたことに気づいた。
「計ったら151キロ。思わずニヤけました」
土台となる体が出来上がってから、投球フォームをつくりあげた。1年目のオフに先輩に誘われる形でアスリートコンサルタントの鴻江寿治氏の主宰する自主トレ合宿に参加した。鴻江氏はヒトの骨格に基づいた体の使い方をアドバイスし、その選手の最適なフォームづくりをサポートすることに定評がある。その自主トレには当時の中日エースの吉見一起やソフトボール金メダリストの上野由岐子らも参加。千賀はその中で超一流の日常や思考などに触れることが出来た。
これらの出会いが大きかったのだろう。千賀は数多くの一流アスリートと接点を持つようになった。その代表例がダルビッシュ有。また、体の仕組みや特に投球フォームについてはとことん突き詰めるようになった。勉強に勉強を重ねて知識を蓄えて、なによりも自身の努力でそれを実践してきた。近年は大きなフォーム改良にも着手。それほど大胆なチャレンジが出来るのも、千賀の生き様の凝縮だった。
数々の“育成出身初”。千賀滉大が残してきた功績
時事通信
千賀の輝かしいグラウンドにおける功績も、挙げ始めたらキリがない。2年目の4月には支配下登録を勝ちとった。ちなみに、そのシーズンだけ背番号は「21」だった。
翌2013年にはリリーフで好投し、20歳でオールスター初出場。その後故障に苦しんだが、2016年からは先発ローテの一角となった。以降はいくつもの「育成出身初」の快挙に名を刻んだ。その年はパ・リーグ育成出身で初の2桁勝利(12勝)を達成した。
2017年はオールスターゲームでプロ野球史上初となる育成出身選手の先発マウンドに上がった。この年は13勝を挙げてこれもプロ初の育成出身で初めての2年連続2桁勝利を飾った(今季まで7年連続)。2018年は史上初の育成出身初の開幕投手に。そして、2019年9月7日のロッテ戦で、育成出身史上初のノーヒットノーランを成し遂げた。
千賀は自身について「僕は育ちが違う」と表現したことがあった。どんなにツライ練習でも時に厳しい言葉を浴びせられても、不満に思ったことはなかったという。
「きついとは思ったけど、なんで?とはならなかった。『お前は一番下なんやぞ』と言われても『分かってますよ~』と返しながら、練習してました」
念願のMLBヘ。千賀が夢の続きを叶える
先述したように「ドンケツのビリのビリ」だった。そんな男が球界のエースとなった。千賀の成功がなければ、チーム内でも後に続いた石川柊太の活躍はあっただろうか。
その他大勢の育成選手の希望の星にもなった。ホークスは来季から四軍制へと育成システムをさらに拡大するが、その動きも生まれなかっただろう。球界全体を見渡しても「育成の星」は今では珍しくなくなった。今年の日本シリーズで大活躍したオリックスの宇田川優希も2020年育成ドラフト3位でプロ入りした右腕だ。
千賀は自分の夢を叶えることで、たくさんの周りの夢も実現させてきた。
そして、長年思い続けてきた夢舞台で羽ばたく。千賀はホークス球団を通じて次のようなコメントを寄せた。
「WBC・ロス(2017年)でのマウンドが心に響いて以来、ずっとMLBでプレーすることへの思いを持ち、それを叶えるための行動をしてきました。能力を高めるためだったり、いろんなことに適応するためのチャレンジをしてきましたし、自身を変える強さも持てました。その結果、まだどこかと契約できたわけではないですが、憧れてきた舞台が目の前までは来ているのかなと感じています。球団(ホークス)には、これからの挑戦を応援していると言ってもらいました。今後どうなるのか僕自身まったくわかりませんが、これまで同様、自分を高めるための努力を怠らずに日々過ごしたいと思います」
最速164キロのストレートを投げ、お化けフォークを操る右腕に関心を寄せるメジャー球団は多いと聞く。来年の千賀はどの街で、どんなユニフォームに袖を通して夢の続きを叶えるのだろうか。
文・ 田尻耕太郎
1978年生まれ、熊本市出身。法政大学卒。ホークス球団誌の編集を経て、2004年夏にフリーに。一貫して「タカ番」スタイルの現場主義を大切に取材活動を続けており、2021年にちょうど20年目のシーズンを迎えた。「Number」など雑誌・ウェブ媒体への執筆のほか、ラジオ出演やデイリースポーツ特約記者も務める。
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