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サッカー

【連載】元イタリア代表GKジョヴァンニ・ガッリが追憶するマラドーナとの日々 | イタリアサッカー界の重鎮が登壇「カルチョS級講座」第5回

【連載】元イタリア代表GKジョヴァンニ・ガッリが追憶するマラドーナとの日々 | イタリアサッカー界の重鎮が登壇「カルチョS級講座」第5回(C)Getty Images
【インタビュー】イタリアサッカー界の重鎮がカルチョの魅力や神髄に迫る当連載。第5回は1986年のメキシコワールドカップでイタリア代表の正GKを務めたジョヴァンニ・ガッリ氏が、元同僚ディエゴ・マラドーナさんとの語り尽くせないほどの思い出を振り返る。

スーパースターが集う世界最強リーグで別格の

11月25日に世界中を駆け巡ったディエゴ・マラドーナ死去のニュース。彼とは個人的な付き合いがあったこともあり、世間同様、私は大きなショックを受けました。

ご存じのように、ディエゴは1984-85シーズンから7シーズン、ナポリでプレーしました。

当時、私も現役選手でしたから、最初の6シーズンはフィオレンティーナとミランの選手としてディエゴと対戦、最後の1シーズンはナポリでチームメイトとして一緒にプレーする幸運に恵まれました。

敵、味方として接したディエゴとの思い出は、それこそ語り尽くせないほどたくさんあります。月並みの表現になりますが、とにかく異次元の選手でした。

あの頃のセリエAと言えば、ミシェル・プラティニ、マルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、カレッカ、カール=ハインツ・ルンメニゲ、ジーコら世界中のスーパースターが集結。誰もが憧れる世界最強リーグでした。

その中でもディエゴは別格でしたね。私はゴールキーパーでしたから、試合前の情報収集はもちろんのこと、試合中も彼らスター選手のプレーを常に予測しながらゴールマウスを守っていました。

例えば、ジーコ、プラティニが相手なら「こういったプレーに注意しないといけない」、「ここがダメだったら、次はこう対策しよう」といった具合です。

ほとんどの選手は前もってある程度の対策を立てることができましたが、ディエゴだけは無理でした。

プレー自体が、まったくもって予測不能だったからです。

それこそひとたびボールを持つと、不可能と思われるようなことをいとも簡単にやり遂げてしまうのがディエゴでした。

彼の偉大さは、他の誰にもなかったその「予測不能」なプレーに集約されていたと思います。

われわれの予想を遥かに上回ったフリーキック

常識を逸脱したプレーの数々。敵としてディエゴと戦ったときは、本当に神経をすり減らしました。彼との対戦は、それはストレスフルでしたね。

ゴールもたくさん奪われました。その中でひとつ、今でも私の脳裏に焼き付いているシーンがあります。

ミラン所属時、ディエゴに決められた直接フリーキックです。

1988年5月1日、ナポリの本拠地スタディオ・サン・パオロでの一戦でした。

1987-88シーズン、ミランとナポリは激しい優勝争いを繰り広げました。この直接対決も含めシーズンは残り3試合。2連覇を目指していたナポリが首位で勝ち点42。2位のミランは勝ち点40(当時は1勝=勝ち点2に換算)でした。

言うまでもなく、両者ともに負けられない一戦。

私は大一番に向け、当時のシルヴィオ・ベルルスコーニ会長から、ディエゴのフリーキック対策として「ポストに誰か味方を置け」と口酸っぱく言われていました。

ゴールキーパーにはポストに味方を置くタイプと置かないタイプがいて、私はそもそも後者の方。

ディエゴがフリーキックを蹴るとき、ナポリの選手たちが相手キーパーの視野を消そうと配置を工夫する傾向があったので、私は会長に「ポストに味方を配置したら前が見えなくなります」と反論したんです。

しかも当時のミランにはファン・バステン、フリットやパオロ・マルディーニら、190cm前後の長身選手が揃っていました。つまり壁に十分な高さがあったので、ディエゴが狙えるのはクロスバーぎりぎりのわずかなスペースのみ。私がポスト付近に味方を配置したくない理由はそこにもありました。

今では伝説と言われるゴール正面やや右寄りのフリーキックの場面でも、私はニアサイドのポストに味方を置きませんでした。

ただ、ディエゴのフリーキックは、われわれの予想を遥かに上回っていましたね。

ゴールから20メートル足らずの距離でカーブをかける場合、それほど強いキックは蹴らないものです。しかし、ディエゴはコンパクトに足を振り抜き、針の穴を通すような正確無比なキックでゴールネットを揺らしました。

敵ながら感服しましたが、決められた瞬間、まず私の脳裏をよぎったのはベルルスコーニのことでした。「試合後、何を言われるだろう」と。

試合は運良く3-2でミランが勝利。こうして私はベルルスコーニ会長の怒りから逃れることができました。

われわれは最終的に逆転優勝を飾りましたが、もしあの試合で負けていたらと想像すると今でもぞっとするくらいです。

子どもがディエゴにサッカーボールを投げると…

ナポリでチームメイトとして接したディエゴは、サッカー小僧そのものでした。

彼にとって練習場に行くのは、それこそディズニーランドに行くようなもの。全体練習が終わっても、最後までボールを楽しそうに蹴っていたのがディエゴでした。

フリーキック練習、PK練習、ボレーの練習…。私は毎日のように彼のシュートを受けていましたが、トラップひとつにしても想像できないようなスペクタクルに満ちていました。

彼のプライベートについては様々な報道がなされてきましたが、ディエゴはシンプルで飾らない、優しい性格の持ち主。

誰よりも偉大でしたが、決しておごった態度をとるようなこともなかったです。

人の輪に入って騷ぐことが大好きで、ちょっとしたことでもお祭りのように楽しめる天性の明るさを持っていました。

ピッチ外でも偉大でしたよ。ある日の夜、ディエゴと私はレストランで夕食をとっていました。すると突然、ひとりの子どもがディエゴに向けてサッカーボールを投げてきたんです。

どうしたと思いますか? ディエゴはそのボールをいとも簡単に頭でトラップして、ボールにサインをし、子どもに返したんです。

その子どもの喜びようたるや、想像は難くないでしょう。そういったことが自然とできるのも、ディエゴでした。

彼はいろんな体験を私に語ってくれもしました。ひとつご紹介します。ディエゴがアラブ首長国連邦に行ったときのことです。

イタリアに戻るため、プライベートジェットに乗り込もうとしたまさにそのとき、ひとりの大富豪が駆け寄ってきたそうです。

そしていきなり袋を手渡されたそうで、その袋を開けると、中にはダイヤモンドが山のように入っていたとか!

それにしても早すぎたディエゴの死。彼の訃報に接したとき、初対面で彼から言われた言葉をふと思い出しました。

「ジョヴァンニ、キミのことをまずしっかりと知る必要がある」

私はどちらかというと考え込む性格でしたので、そういった私のキャラクターを知った上で、ディエゴはあの言葉をかけてくれたのだと思います。

ディエゴはスーパースターでした。ゆえに、周囲には彼を利用してお金儲けを企む輩が常に群がっていました。

持ち前の明るい性格にもかかわらず、晩年は疑心暗鬼にならざるを得ない状況にあったのではと想像します。

「キミのことをしっかりと知る必要がある」

あのフレーズは、私の心の中に今も深く刻まれています。ディエゴは本当に人として温かい、偉大なプレーヤーでした。

講師:ジョヴァンニ・ガッリ

1958年4月29日生まれ。フィオレンティーナを皮切りに、ミラン、ナポリ、トリノ、パルマ、ルッケーゼでプレーした元イタリア代表GK。1982年スペインワールドカップ優勝メンバーのひとりで、86年メキシコワールドカップでは正GKを務めた。現役最終年の1995-96シーズンを除く計18シーズンで、セリエA通算496試合に出場。ミラン時代の87-88シーズンにスクデットを獲得している。引退後はフィオレンティーナのチームマネジャーやヴェローナのGMなどを歴任。現在はフリー。

インタビュー:アルベルト・コスタ
翻訳・構成:垣内一之

訳者プロフィール/1998年にイタリアに移住し、約8年間、中田英寿、中村俊輔、柳沢敦ら日本人選手を中心にセリエAを取材。2006年のドイツ・ワールドカップ後に帰国し、現在は日本代表、Jリーグを中心に取材を続けている。

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