2022年8月10日に埼玉スタジアムでの声出し応援が条件付きで解禁されて2試合目――。
8月19日に行われたAFCチャンピオンズリーグ2022ノックアウトステージ・ラウンド16のジョホール・ダルル・タクジム戦のキックオフ前、ピッチでアップしていた伊藤敦樹の耳に飛び込んできたのは、自身の名前が入ったチャントだった。
この街で生まれた浦和の漢
クルヴァで育った浦和の漢
浦和を熱くさせる漢
ララララララー伊藤敦樹
ララララララー伊藤敦樹
「自分の名前が聞き取れたので、すぐに分かりましたね。個人のチャントを作ってもらうのはひとつの目標というか、誰でも歌ってもらえるわけではないので、すごく嬉しかったです。サポーターの期待が込められた歌詞だと思うし、その期待を背負って戦わなければいけないって改めて感じさせてもらいました」
その後、天にも昇るような気持ちをさらに高め、責任と自覚をより強める事実も知った。敦樹のチャントは、クラブのレジェンドのひとりである長谷部誠のメロディを継承したものだったのだ。
「最初、聞いたときは分からなかったんですけど、あとでTwitterを見て知りました。光栄ですし、ありがたいですし……嬉しすぎますよね」
過去にも浦和レッズの選手であること、クラブの誇りであることを強調するような胸アツなチャントはいくつもあったが、ここまでストレートに“サポーターの代表”であることを表現した歌詞は珍しい。
クルヴァとはイタリア語で「カーブ(曲線)」の意味で、それが転じて「熱狂的サポーターが陣取るゴール裏」を指す。
そして、敦樹は子どもの頃、そのクルヴァでレッズに声援を送っていた。
「生まれたときからレッズとサッカーが身近にあって、幼稚園生の頃から両親や姉たちと一緒にスタジアムに行っていました。ゴール裏で見たり、バックスタンドで見たり。キックオフの何時間も前にスタジアムに来て、シートを敷いて並んだ記憶があります(笑)」
敦樹の両親とふたりの姉は1996年、敦樹が生まれる2年前に浦和に越してきた。両親は1993年のJリーグ開幕当初からサッカーを見ていたが、特定のチームのサポーターというわけではなかった。新居がたまたま浦和駒場スタジアムから徒歩10分の場所にあり、そこでレッズと出会い、レッズに魅せられ、熱狂的なサポーターとなっていった。
「母親に連れられて、大原サッカー場や吾亦紅寮で選手の出待ちをしたことも何度もあります。母はイケメン好きで、鈴木啓太さん、長谷部誠さん、永井雄一郎さん、ヒラさん(平川忠亮/浦和レッズユースコーチ)とかのファンで(笑)。僕もたくさんの選手と写真を撮ったり、レッズのエンブレムの入った色紙にサインを書いてもらったりしました。なかでもエメルソンはすごく優しくて。子ども用だったのか、サインも絵文字が入っていて可愛かった。サイン色紙は今でも実家に飾ってあります」
2006年シーズンの最終節、J1リーグ初制覇を成し遂げたガンバ大阪戦も埼玉スタジアムで見たはずだが、小学2年生と幼かったため、記憶があやふやだ。
「2007年のACL(AFCチャンピオンズリーグ)も行ったんですけど、決勝だったのか、準決勝だったのか、曖昧なんですよね(苦笑)」
ただ、人生で初めて埼玉スタジアムのピッチに足を踏み入れた瞬間のことは今でもはっきりと覚えている。その眩しいまでの光景も、握った手の感触も――。
2005年11月26日のジュビロ磐田戦。この試合のエスコートキッズに選ばれた当時7歳、小学1年生の敦樹は、田中マルクス闘莉王と手を繋いで階段を昇り、ピッチに入場した。
「闘莉王さんが手袋を逆に着けていて、本来手のひらにあるボツボツが手の甲にあったんですよ。どういう意図だったのかは分からないんですけど、子どもの頃、その着け方を真似していました(笑)」
(C)浦和レッズ
[田中マルクス闘莉王と入場する伊藤敦樹 (C)浦和レッズ]
敦樹が家族とともに熱心に埼スタに通ったのは小学2年生までだった。3年生からサッカークラブに入り、土曜、日曜は自身の試合で忙しくなったからだ。
しかし、だからといってレッズ熱が薄れたわけではない。自身も本格的にサッカーを始めたことによって、その熱はむしろ高まっていった。地元クラブへの愛情と誇りは、念願だった浦和レッズジュニアユースに入ってからも、ユースに昇格してからも変わらなかった。
「ずっとサポーター目線でした。週末のレッズの結果に一喜一憂して、勝ったら本当に嬉しかったし、負けたら悔しくて自分もイライラしたり(苦笑)。アカデミーに入ってからは、レッズでプロになりたいとは思っていましたけど、客観的に自分の立ち位置を見て、叶わないことも認識していました。だからアカデミー時代も、気持ちはサポーター寄りでしたね」
トップ昇格を果たせなかった敦樹は、「4年後にレッズに戻る」という誓いを立てて流通経済大学に進学する。
レッズが2度目のACL決勝に進出するのは、敦樹が大学1年生のときだ。対戦相手はサウジアラビアのアル・ヒラル。アウェイの第1戦に1-1で引き分けて埼スタに戻ってきたレッズは、ラファエル・シルバの終了間際のゴールで1-0と勝利し、2度目のアジア制覇を成し遂げる。
その瞬間を、敦樹はサッカー部の寮の食堂でチームメイトとともに見ていた。
「食堂に大きなテレビがあって、何人かと見ていたんですけど、ゴールが決まった瞬間、思わず叫んでいましたね」
3度目の決勝進出となる2019年大会は、クラブ関係者からチケットをもらい、サッカー部の許可を得て埼玉スタジアムに駆けつけた。
「メインの横のほうの、かなり良い席で観戦させてもらいました」
大学入学後は茨城県内の寮で生活していた敦樹にとって、埼玉スタジアムで観戦するのは久しぶりのことだった。
そこで敦樹が目にしたのは、震えるほど壮大なビジュアルサポートと、2年前よりもパワーアップしていたアル・ヒラルの強さだった。
「アウェイの第1戦も深夜でしたけど、寮で見ていて。すごく強かったじゃないですか。ただ、0-1だったので、ホームで逆転できるかもしれないと思っていたんですけど……めちゃくちゃ強かった」
結果、0-2の完敗。3度目のアジア制覇はならなかった。子どもの頃から「レッズが負けたら不機嫌になった」と言う敦樹だから、この完敗には打ちのめされた。
と同時に、改めて思うのだ。やっぱり俺は、レッズでプレーしたい――と。
「久しぶりに埼スタに行って、強く思いましたね。レッズに入りたい、レッズの一員としてACLの舞台に立ちたいって」
ときは大学3年の秋。それまでにもキャンプに呼ばれたり、天皇杯でレッズと対戦した際に強化担当者や大槻毅監督(当時)と話したりはしていたものの、レッズに加入できるという確証はまったくなかった。
それでも敦樹は、流通経済大の中野雄二監督やスタッフから「どうする?」と尋ねられると、「レッズ以外は考えていません」ときっぱりと答えた。
「他のクラブからもアプローチはあったと思いますけど、スタッフのところで止めておいてくれて、僕の耳には一切入ってないです。レッズのユニフォーム以外を身に着けている自分が想像できなかった。レッズがダメだったら、そのときに考えればいいかなって」
そして大学4年となった2020年6月25日、レッズから待望の加入内定をもらうのだ。
「めちゃめちゃ嬉しかったですね」
あれから3年が経ち、今では個人チャントを歌ってもらえるほどの主力選手となった。
そして、夢にまで見たACL決勝の舞台に立つ日は、目前に迫っている。しかも、相手はあのアル・ヒラル。奮い立たないはずがない。
「僕にとって完全アウェイも中東での試合も初めてになるから、しっかり心して臨みたいと思います。きっとすごい雰囲気なんでしょうね。でも、アウェイにも多くのファン・サポーターが来てくれると聞きました。みんなと一緒に戦って第1戦を乗り切れば、最高の雰囲気の埼スタが待っている。まずは第1戦、全力で戦ってきたいと思います」
24年の人生を振り返れば、ずっとレッズと一緒だった。
「生まれたときからレッズが当たり前のように身近にあって、応援に行くようになって、自分もサッカーを始めて。レッズのおかげでサッカーが好きになったし、レッズが僕のすべてでした。今、こうしてレッズの一員になって、昔の僕がそうだったように、小さな子どもたちや小中学生に夢を見せられるような人になりたいですね」
浦和駒場スタジアムのすぐそばで生まれ育ち、駒場や埼スタで歌い、飛び跳ねて声援を送り、中高時代は憧れのユニフォームをまとった。トップ昇格はならなかったが、大学サッカーに邁進し、憧れのクラブに舞い戻った青年があのときに誓った夢の舞台に立つ――。
この物語こそ、クラブの歴史と言わずして、なんと言おうか。
多くのサポーターはまるで自分の息子を見るような、あるいは、弟や甥っ子、親戚のお兄さんを見守るような思いで、敦樹のチャントを歌うのかもしれない。
文・飯尾篤史 / 写真提供・伊藤敦樹、浦和レッズ
1975年生まれ。東京都出身。明治大学を卒業後、週刊サッカーダイジェストを経て2012年からフリーランスに。10年、14年、18年W杯、16年リオ五輪などを現地で取材。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』、『残心 中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』などがある。
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