スペインが生んだ、世界最高峰の点取り屋──。キャリアの最終盤をヴィッセル神戸でプレーし、現在DAZNスペインで解説を務める元スペイン代表FWダビド・ビジャ氏は、これまでに所属したクラブや代表で数多くのタイトルを獲得してきた。
DAZNのオリジナル番組『OR7GEN(オリヘン)-ビジャとクラックたちの原点-』では、ビジャ氏がかつての古巣を訪れ、一時代を共に築いた仲間と様々な事柄について語り合う。ビジャ氏がアトレティコ・マドリード、バルセロナ、バレンシアに続いて訪れたのは、下部組織時代を過ごしたスポルティング・ヒホン。故郷を訪れたビジャ氏は、店先で新聞の紙面に目を落とす男性に声を掛けた。
「やあ、着いたのか」
父、メル・ビジャ氏は笑顔で息子を抱きしめる。2人は学校に向かい、昔話に花を咲かせた。
「父のような炭鉱作業員になりたかった」
1981年12月3日、ビジャ氏はスペイン・アストゥリアス州ラングレオで生を受けた。父は炭鉱作業員で、町の住民のほとんどは代々炭鉱作業員の家系だったという。ビジャ氏の愛称“グアヘ”は、炭鉱作業員の見習いのことを指す。
「小さな頃は父のような炭鉱作業員になりたかった。でも父が事故に遭って入院する姿を見て、危険な仕事だと気付いた」
炭鉱の町で生まれ育った少年は、4歳の時に大腿骨を骨折する。ほぼ2カ月間の入院を余儀なくされるほどの重傷で、メル氏は「入院して、ベッドの上で足をつり上げられてた。重りで引っ張ってお尻が浮くほどにね。折れてずれた骨を真っすぐに戻すためだ」と、当時を振り返る。
退院後も右足にはギプスがはめられていたため、ビジャ氏は壁に寄りかかって左足でボールを蹴った。そのことにより、後に利き足ではない左足でも正確なシュートが打てるようになった。
ビジャ氏がマレオ(ヒホンの育成組織)に移ったのは、17歳の時だった。元スペイン代表FWキニ氏、同MFルイス・エンリケ氏(現在はPSGの監督)ら名選手を輩出したクラブで、若き日のビジャ氏は徐々に実力をつけていった。
「この自分の原点を誇りに思う」
父と別れたビジャ氏は、ヒホンの本拠地『エル・モリノン』にやってきた。そこでビデオ通話をつないだのは、ヒホン時代に指導を受けたマルセリーノ氏だった。バレンシアやアトレティック・クルブで高い指導力を発揮した指揮官は、プレシーズンのある試合を鮮明に覚えていた。
「君はBチームで相手はトップチームだった。あの試合を見た関係者は皆、君に目を止めた。『Bチームにすごい選手がいる』ってね」
ビジャ氏も記憶に刻まれた試合があるという。シエロとの試合で、ビジャ氏ともう1人のFWの出来に満足できなかったマルセリーノ氏が雷を落としたのだ。
「後半に2人とも得点して勝ちました。今でも話すんです。ハーフタイム中に監督に怒鳴られて腹が立った。でも僕たちのために叱ってくれたんだと。18~19歳の選手には指導者の喝が時に必要だと。『めんどくせーな』と当時は思いましたけどね(笑)」
また、ビジャ氏はリーグ通算219得点を記録した名FWのキニ氏から教えられたこともはっきりと覚えているという。
「キニは僕にいつもこう教えてくれた。『サポーターと一緒に写真を撮ってあげなさい』『会いに来てくれた人をがっかりさせるな』とね」
選手に必要なのは、何も豊かな才能だけではない。優れた人間性やピッチ内外での品格が備わってこそ、一流の選手なのだ。そう、常に模範的な言動で人々から愛され、2018年に68歳で亡くなった後も尊敬を集め続けるキニ氏のように。
「サッカーで成功するための道筋は1つじゃない。可能性を秘めた若者たちは、必要なツールさえ与えられれば成功を手にすることができる。僕は選手としてとても恵まれた道を歩んだ。この自分の原点を誇りに思う」
OR7GEN(オリヘン)-ビジャとクラックたちの原点-
配信:DAZN
視聴期限:2026年12月31日
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