エラーコード %{errorCode}

ラ・リーガ

“W杯日本戦で煽り走りした奇人”リュディガー、その知られざる生い立ちとは…移民街ノイケルンで過ごした貧困と闘争と努力の日々 | ラ・リーガ紀行

DAZN NEWS
“W杯日本戦で煽り走りした奇人”リュディガー、その知られざる生い立ちとは…移民街ノイケルンで過ごした貧困と闘争と努力の日々 | ラ・リーガ紀行DAZN
【欧州・海外サッカー コラム】あの日本戦の煽るような走り方など、その奇行的な振る舞いによって話題となってきたリュディガー。ただ、それは彼が貧困に苛まれた幼少時代から、真剣に、たとえ滑稽であろうとも絶対に負けられないという気持ちで競争に臨んできた証左なのかもしれない。リュディガーが生まれ育ったノイケルンを訪ねる。

【欧州・海外サッカー コラム】あの日本戦の煽るような走り方など、その奇行的な振る舞いによって話題となってきたリュディガー。ただ、それは彼が貧困に苛まれた幼少時代から、真剣に、たとえ滑稽であろうとも絶対に負けられないという気持ちで競争に臨んできた証左なのかもしれない。リュディガーが生まれ育ったノイケルンを訪ねる。

文/ジュリアン・ドゥエズ(Julien Duez)、フランス『So Foot』誌

翻訳/江間慎一郎(Shinichiro Ema)

 

「これまで対戦してきた中で、一番強烈だった相手は?」

何百試合も戦い、何千人も相手にしてきたプロ選手に対して、そんな質問をするのは無粋かもしれない。しかしその答えとして、一人のDFの名前が必ず出てくるはずなのだ。

アントニオ・リュディガー。30歳、190センチ、85キロ。

この選手は、2021年チャンピオンズリーグ決勝でケヴィン・デ・ブライネと衝突して、顔面を骨折させた。

EUR2020で、ポール・ポグバの肩に噛みついた。

その3年前のネーションズリーグでは、バンジャマン・パヴァールの喉元に強烈なタックルを食らわせた。

VFBシュトゥットガルトでプロ選手となってからわずか数カ月後には、10歳以上も離れたベテラン、ラファエル・ファン・デル・ファールトの胃に痛い一撃を食らわせた。

元オランダ代表MFに対するバイオレンスによって、“ロッキー”・リュディガーと呼ばれることになった彼は、それ以降、ずっとその異名を付き合い続けている。理由は至極単純。それからどれだけの月日が流れても、このセンターバックは何も変わっていないからだ。

リュディガーは今もなお対戦相手のストライカーを痛めつけ、チームの危機を救えば握り拳をつくって、雄叫びを上げている。

しかし、リュディガーはなぜこうも凶悪なのだろうか? トーマス・トゥヘルはチェルシー指揮官に就任した際、そのことを彼に直接問い正していた。

「トゥヘルは俺にこう言ったのさ。『トニ、一つだけ質問をさせてくれ。お前がピッチに立っているとき、その凄まじいアグレッシブさにいつも面食らうことになる。かなり感情を込めてプレーしているが、一体、それはどこからやって来るものなんだ?』ってね。だから俺は彼と少しだけ話し込んで、自分の物語について教えたんだ。ただ正直に言えば、俺の返答なんて本当は言葉一つで事足りていたはず」

「つまりは、ノイケルン、さ」

Neukolln-20230513■リュディガーのディーゼルとエンジンGetty Images

S バーン(ドイツ語圏における各国の国有及び国営鉄道)をゾンネンアレー駅で降りた。周囲にあるものは、ほかの多文化社会と何ら変わらないように見える。東洋の食料品店、公衆電話、ケバブ屋が隣接していて、伝統的なバーが立ち並び、バスの停留所近くではドイツ語、トルコ語、クルド語、クロアチア語、英語、ベトナム語での話し声が響いている。メトロポリスに住んだことがある人にしてみれば、何の変哲もない風景だ。

だがベルリンにおいて、ノイケルンは平穏に暮らせる地域と考えられていない。例えば昨年の大みそかには、若者と警察の大規模な衝突があった。そうした問題を粛々と解決していくドイツにとっては驚くべき出来事で、この地区の評判はさらに下がることになった。

フェラト・コチャクは、ノイケルンの治安の悪さに頭を悩ませる一人だ。黒いパーカーの上に厚みのあるボンバージャケットを羽織り、防寒対策はばっちりという出立ち。この40代の若々しい男性は、じつは風邪を治そうとしている最中で、10秒ごとに鼻を鳴らしている。その髭は一部赤く染められており、彼の属する政党がリンケであることを示していた。リンケは左派・極左の政党で、その党員であるコチャクはノイケルンの代表としてベルリン市議会に参加している。

「私たちはプロレタリア地域にいるんだよ」、コチャクがそう語る。咳を効果音のように差し挟みながら。

「ここでは歴史的にファシズムや国家の暴力に対抗していく気概、というものが存在していた。それでも極右はいまだはびこっており、ノイケルンを分極化している。南は裕福な人々とドイツ人たちの住む地域が多く、北はより貧しくて多文化的だ」

コチャクは何度も鼻をすすりながら、次第に移民の歴史家へと顔をつきを変えていく。

「ベルリンの分割期に最初の“ガストアルバイター(出稼ぎの外国人労働者)”がやって来た。大多数がトルコからで、レバノン人、パレスチナ人が彼らに続いている。それからバルカン半島の人々、最近になってアフリカ人やシリア人もやって来るようになった」

1993年3月3日、リュディガーはこの文化的モザイクの中で生を受けている。父親はドイツ人で、シエラレオネ人の母親は紛争ダイヤモンドに苦しむ祖国からベルリンに逃げ延びた。

物語の出発点は、ディーゼルシュトラーセ通りにある住宅団地だ。ディーゼルエンジンの発明者の名を冠したその通りは、ヴァイセ・ジードルングという地域の中心にある。同地域の人口は4300人で、その内75%がドイツ国外にルーツを持つ“バベルの塔”である。

「この住宅団地は1970年代、“ガストアルバイター”が泊まるために“ガストアルバイター”によって建設されたんだ」、コチャクが言う。団地は猫の子一匹もいない静けさだったが、住人のための小さな食料品店が開いていた。店主は、トルコ出身の女性だ。彼女はリュディガーのことを知らなかったが、ここのアパート群について色々と語ってくれた。

店主によれば、団地の建物内部はとても不衛生で、エレベーターが頻繁に故障するなど管理がまったく行き届いていないらしい。しかし、改善は望むべくもないとのこと。家主たちは貧相でみすぼらしい建物がこのまま朽ちていき、1970年代のブルータリズムの魅力に投資したいヒップスターに買われることを望んでいるんだそうだ。

コチャクは彼女に自分の住所を渡して、もう一度話を聞くことを約束していた。地元の選挙が行われるまで、あと数週間。彼は再選を目指していた。

「トニはベルリンの壁崩壊後に育った第一世代の子供だ。誰もここで暮らしたがらなかった時代のことだよ」、市議会議員のコチャクが語る。

「それから色々と変わったな。ノイケルンはここ最近に急激な変化を遂げた。ベルリンでジェントリフィケーション(再開発による都市の高級化)が起こった影響もあるね」

アパート群を見上げて、まだ小さかったリュディガー、いや、アントニオのことを想像してみる。アントニオの母親リリィはこの団地の17棟で、彼と5人の兄弟、さらに異父兄弟にあたるサー・セネシエを育て上げている。サーはアントニオのようにプロ選手となり、2000年代はじめにはボルシア・ドルトムントの選手として数試合に出場。しかし、キャリアの大部分はドイツの下部リーグで過ごした。2015年にスパイクを脱いだ後には代理人として第二の人生をスタートさせ、リーグ・アンを中心に活動している。

「この前はランスにいたんだ。オセールとの試合を見るためにね。パリへの帰路ではボンディを通ったが、私たちの町を思い出したよ」、アントニオの兄弟が電話で述懐した。「あのアパートでの日々はトニに大きな影響を与えている。リヴァプールやバルセロナと対戦するようになっても、それは変わらない。あそこで育てば思い知らされることになるんだ。“人生で求めるものがあるならば、全力を尽くすしかない”ってね。彼が常に100%の力でプレーしているとしたら、それはディーゼルシュトラーセが今も彼の心の中にあるからだ。あそこは彼にとって、初めてのプロクラブよりも大切な場所なんだよ」

rudiger-sututtgard-bundesliga-20230513■ゴールとミートボールGetty Images

2012年、アントニオ・リュディガーはVFBシュトゥットガルトでデビューを果たし、世界に見つけられた。しかしそれ以前の彼は、ボルツプラッツでフットボールに明け暮れる若者の一人に過ぎなかった。ボルツプラッツはベルリンのあらゆる街角にあるスポーツコートで、娯楽がほとんどないヴァイセ・ジードルングにも、もれなく存在している。

「ボルツプラッツは若者たちが“参加する”ために集まる場所だ。その地域だけでなく、一般社会とつながるためにね」、サーが語る。彼もボルツプラッツに通う子供だった。

「あそこでの接触プレーは、“モロ”にぶつかるんだ。ミスは許されない。現実社会みたいに厳しい世界で、だから人生の学校として学びを得られる。何より、秩序というものをね! そいつは普通の学校で教わるものとは違うのさ。クラスでは何か困難にぶつかれば、最後には誰かしら助けてくれるが、ボルツプラッツではそうはいかない。あるのは2つのルールだけ。もし泣くなら立ち去り、怪我をしても立ち去らなければならない。そうして、あきらめないことを学ぶんだよ」

都市ジャングルの中にあるジャングル……。だがリュディガーを過去に手ほどきしたことがある指導者たちは、ボルツプラッツで行われる即席試合の素晴らしさを口々に語る。サー曰く、その即席試合で賭けられるのは「ケバブ、フライドポテト、コカコーラ」と「自分と自分の町の誇り」。そして、その「誇り」こそが何よりも大切だと説くのが、50年にわたってソーシャルワーカーとして働くゼリュコ・リスティッチだ。

ベルリンの労働地区に住む子供たちをサポートするために立ち上げられたプロジェクト、“アウトリーチ”。そのオフィスの客間でソファーに腰を下ろすゼリュコは、ボルツプラッツの社会的機能について説明する。過去と今とで、それが変わりつつあることも……。

「あそこでは他人ではなく、自分自身を乗り越えるということを学べる。プレーするためにはうまくならなければいけない。そこに情けはないんだ」

「素晴らしいフットボーラーになれば住んでいる区画のヒーローになれる。ただ残念ながら、今の若い子たちには、ほかにしなければいけないことがあるようだ。今の若い世代は、以前のように自然にはボルツプラッツに集まらなくなってしまった」

「昔の子供たちは、自由な時間があればずっとボルツプラッツで過ごしていたものなんだよ。だが今のクラブチームの指導者たちは、負傷を恐れるあまり、あそこには行かないよう子供たちに言い聞かせるようになってしまった」

「トニはある意味、ベルリンのストリートで育った最後の世代と言えるかもしれないな」

ゼリュコの従兄弟スレトは、ウニオン・ベルリンのユニフォームに袖を通した経験を持つ。しかしゼリュコはスレトのことを誇りに思いながらも、ウニオンの西のライバル、ヘルタ・ベルリンに心臓を捧げている人物だった。というのも彼は、12年間にわたってヘルタの下部組織で指導者を務めてきたのだ。

ゼリュコとリュディガーの出会いは一瞬だった。が、リュディガーの人生を大きく変えるには、その一瞬で十分だった。

「当時U-13の年代だった彼は、ノイケルンのNSFグロピウスシュタットに所属していた。私は彼の監督であるケイシーの了承を得て、週に1~2回、私たちの練習や試合に参加させることにしたんだ。非公式なことではあったがね」

それは2000年代初頭のこと。興味深いことに、当時のリュディガーはストライカーとしてプレーしていた。

「背が高くアグレッシブで、シュートとパスの技術があり、ヘディングだって使えた。それと、度胸が凄まじかったね。彼にとって、ピッチ上では何がどうあるべきかがはっきりしていたのさ。ボールは絶対に彼の物でなくてはならず、だからこそ、絶対にデュエルで勝たなくてはいけなかったんだよ」

だがしかし、ゼリュコはリュディガーをヘルタ・ベルリンにとどめることができず、大きな失望を味わうことになった。

「ほかの指導者は彼のことを単純に大きくて強い選手のように扱っていたわ。ただただ走ることだけを求められた彼は、1年後にクラブを出て行ったの。もったいない話よ……」。そう語ったのはゼリュコではなく、さきほど彼の話に出てきたケイシー。ケイシー・シュミットだ。ベルリンの中心にあるキャンピングカー宿泊施設の所有者及び管理者である。

冬はキャンパーたちのお気に入りの季節ではないようで、時間を持て余している様子のケイシーは、まだ暖まらないプレハブの中で私たちに話を聞かせてくれた。「私もノイケルン出身なの」と、彼女はベルリン訛りのドイツ語で語り始める。

「私は南部の出身だけど、トニがどう育ったかは分かっているつもり。決して簡単な環境ではなかったわ。だけど幸運なことに、彼にはいつだって母親が寄り添っていた。彼女って、本当に大きなハートの持ち主なのよ」

リュディガーはNSFグロピウスシュタットに1年だけ所属。同クラブでの経験は当時の彼の生活と同じく、とても質素なものだった。「あらゆることを私たち自身で解決しなくてはならなかった」、ケイシーは鼻息を荒くしながら語り続ける。

「クラブはあらゆるお金をファーストチームに費やしていて、私たちのことを助ける余裕なんてなかったの。28人がピッチの端で練習しなければいけないときもあったわね。それと、ある大会でバイエルンと対戦したときがあって、子供たちは彼らとユニフォームを交換したがっていたのだけれど、残念ながら私たちはノーと言わなくてはならなかったの。ユニフォームが一着も余っていなかったのよ」

ケイシーは選手たちの琴線に触れることを、もっと言えば、彼らの“2番目のママ”になることを望むような人物だ。“自分の息子たち”がより豊かな人生を送れるように……。例えば選手たちは、彼女のおかげでドイツという国を知ることができた。「私たちはドイツ中でプレーしてきた。国外も含めてね」、ケイシーが満足げな表情を浮かべる。

「多くの子供たちにとって、それがノイケルンの外に出る唯一の機会だったのよ。だから私たちは継続的にスポンサーを探してきた。それに遠征の準備や費用は皆が協力してくれたの。ミートボールを用意してくれる人がいれば、ソーセージのグリルやケーキをつくってくれる人もいて……。トニのお母さんは経済的に大変な思いをしていたけれど、牛乳を93セントで買えて、それを売っていたのよ! 彼女はそうやって私たちの助けになってくれた。それぞれができることをしていたし、お金に悩まされることはなかったわね」

rudiger-real-madrid-liga-20230513■「警察は嫌いだ!」Getty Images

家族の庇護があったとはいえ、リュディガーが完全に守られているわけではなかった。ノイケルンはやはり難しい場所で、青春期の若者たちが道を誤る現実が横たわっている。

「幸運にも彼は家族に囲まれていた。母親と兄弟たちがいつも彼の練習に付き添っていたが、本当に良かったよ。練習に向かう道は、ちょっとばかし危ないからね」

地下鉄の駅でパン屋を営むティム・ヤウアーが、ホットチョコレートを飲みながら両目を輝かせている。彼もまた、ケイシーやゼリュコのようにリュディガーに魅了された一人であり、現レアル・マドリーDFがベルリン南部でも有数の選手育成クラブ、タスマニア・ベルリンでプレーしていた頃のことをよく知る人物だ。

生粋の“ノイケルナー”であるティムは知っている。この地域の住人全員が、リュディガーと同じような「意思の強さ」を備えてはいないことを。

「ノイケルンに残っていても悪くはなかっただろう。ただ、やっぱりリスクはあるよな。例えば4人の友人と一緒にいて、彼ら全員が食料品店で何か盗むことを決めたとしたら、『じゃあ俺は一体どうすればいいんだ?』と自分自身に問いかけることになる。“クール”な連中の一員になりたい……そう考えてしまうときがあるんだよ」

ヘルタを去ったリュディガーはその後、高級住宅街ツェーレンドルフに拠を構えるヘルタ03に加入。ブンデスリーガとは縁がないながら、ここも若手の育成に定評があるクラブだ。リュディガーは往復2時間をかけて通ったその練習場で、おそらく、これまで見たこともなかったタイプの人物と知り合った。それがマルクス・プログ、警察官である。

「初めて出会ったとき、トニにこう言われたんだ。『警察なんて嫌いだ!』ってね」、現在60歳のプログが述懐する。彼は10年前にスウェットとサンダルを脱ぎ捨てた。が、警官のユニフォームは今も着用し続けている。フットボールの元指導者は「当時の私は少年犯罪を担当していたんだよ」と語り、こう続けた。

「あの頃のトニは、ブランド物のスパイクや最新の携帯電話を働くことなく入手できる周りの人々をじっと見つめていた。もちろん自問自答をするようになっていたよ……。そうしたテーマはタブーではあるんだが、しかし、私は彼に対して心づもりをするよう言ったんだ」

「フットボールをプレーし続けてそれで生計を立てられるようになるか、それとも、最後には犯罪者になる人間もいるストリートの友達とつるんでいくのかをね」

リュディガーは前者を選んだ。結果的に、正しい選択だった。

「トニは親身になってくれる人間を必要としていた。ただビデオや戦術ボードを使って仕事をこなすだけのロボットではなく、ね」

「だからこそスパレッティのローマ、コンテやトゥヘルが率いたチェルシーであれだけうまくいったんだろう。ドイツ代表の下部年代で知り合ったホルスト・ルベッシュのもとでもそうだったし、レアル・マドリーのアンチェロッティについても同じことが言える。マドリーがトニを獲得した際、アンチェロッティはわざわざ彼の家を訪れた。それは選手としてだけではなく、彼の人物像やその家族など、そのバックボーンも重視していたためにほかならない」

rudiger-japan-worldcup-germany-20230513■さらば、ベルリンGetty Images

ゼリュコ・リスティッチは、リュディガーがヘルタ・ベルリンを離れてツェーレンドルフで過ごした2年間について、「異なる社会」を見つけ出す良い機会だったと振り返る。それというのも、ヘルタ・ベルリンでプレーしていた頃は「継続的に結果を出すことを義務付けられていた」ためだ。育成年代の監督が抱える問題について、ケイシーが語る。

「彼らは選手たちのことを、まるで下着のように取っ替え引っ替えしていく。選手が子供であることを忘れてマシーンのように扱っているわ」

2008年、マシーンとは程遠かった15歳のリュディガーに、兄サー・セネシエがボルシア・ドルトムントの入団テストの話を持ってきた。「ベルリンを後にするという決断には母の意向も含まれていた。息子には正しい道を歩んでほしいと願っていたからね。でも最終的にはトニ自身で決めたことだったんだろう」、弟の相談役も務めるサーが語った。

その後の話は、もう皆が知るところだ。ルール地方で3年を過ごしたリュディガーは、その後シュトゥットガルトに加わりプロデビューを果たした。「彼の兄がプロになるための最高の道を見つけ出した」、ゼリュコは言う。若きリュディガーはノイケルンとはまったく異なる環境に身を置くことで、逆にベルリン出身のアイデンティティーを確立したのだという。

「私たちはまるでパリジャンのように傲慢なんだ。どこの出身かと問われれば『ドイツ』とは答えず、『ベルリンさ』と返すんだよ。トニが自分がどこからやって来たのかを忘れたことなんて、ただの一度もなかった」

だからこそ、リュディガーの最初期を知る全員が、今の彼にも子供だった頃の面影を見出すことができるのだ。ワールドカップでドイツ代表のユニフォームを着ている“リュディガー”にも、チェルシーの一員としてチャンピオンズリーグ優勝を果たした“アントニオ”にも、ラ・リーガでプレーしている“トニ”にも……。スペインの地でも、彼の意思の強さは相変わらずなのだろうか? 「変わっていないわね」とケイシーが返答した。

「彼の連絡先はずいぶん前に失くしてしまったわ。だけど、ほかの教え子たちと同じように彼とも約束を交わしたのよ。ベルリンに戻るときには、砂糖と牛乳入りのコーヒーをごちそうしてよねって。最後に戻ってきたとき、彼はそうするのを忘れていたわ。だから私には借りがあるのよ! 個人的に、あの髭もじゃは汚らしいと感じてしまうのだけど、まあ、彼もそういう年齢なのよね。それでも凛々しい顔つきをしているのは分かるし、あの眼差しは……何かを語りかけているようなのよ」

リュディガーは一体何を語っているのだろうか? 一流のスポーツマンとなった彼だが、その生い立ちは決して恵まれていたわけではない。だからこそ、今を生きる子供たちが自分と同じような思いをしないよう行動を起こした。例えば、彼がルーツを持つシエラレオネでの活動である。マルクス・プログが誇らしげに語る。

「彼はあっちで、足に問題を抱える子供たちが手術を受けられるよう資金を提供している。ここでもロックダウンの時期に、病院で働く人々のためにピザ代を支払っていたよ」

「しかし、なぜそういったことがもっと話題に上がらないんだ?」、そう問いかけるのはティム・ヤウアーだ。「なぜ彼は然るべき称賛を受けられない? いつも陰口のような批判ばかりが目につくんだ」

最近にあった陰口のような批判は、カタール・ワールドカップの日本戦のことだ。彼は守備時に、その足を胸の高さまで上げる走りを見せた(別にこの試合で初めて見せたわけではない)。まるでゲームも相手もおらず、陸上トラックを駆け抜けるウサイン・ボルトのように。「人々は敬意を欠いているなどと言っていたが、あれは陸上競技特有の効果的な動きじゃないか」。語気を強めるヤウアーは、こう結論付けている。

「ノイケルン出身の若者がレアル・マドリーでプレーしている……まったく、とんでもないことだよ。トニ・リュディガーのキャリアは、私たちの地域の素晴らしい宣伝になるって? ……もし彼がロベルト・ミュラーなんて名前ならば、人々のリアクションは間違いなく違っていたはずだ。ドイツは、人々の嫉妬、という問題を抱えているのさ」

文/ジュリアン・ドゥエズ(Julien Duez)、フランス『So Foot』誌

翻訳/江間慎一郎(Shinichiro Ema)

※原文フランス語、スペイン語より重訳

関連記事

●  レアル・マドリーMFバルベルデから暴行受けたビジャレアルMFバエナが警察に被害届…さらに家族への脅迫被害を明かす|ラ・リーガ

DAZNについて

DAZNなら好きなスポーツをいつでも、どこでもライブ中継&見逃し配信!今すぐ下の記事をチェックしよう。

●  【番組表】直近の注目コンテンツは?
●  【お得】DAZNの料金・割引プランは?