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明治安田J1リーグ

【インタビュー】強い絆と運命に導かれた現役ラストマッチの解説。岩政大樹が語る“弟”内田篤人の素顔と未来とは|鹿島アントラーズ

青山知雄
【インタビュー】強い絆と運命に導かれた現役ラストマッチの解説。岩政大樹が語る“弟”内田篤人の素顔と未来とは|鹿島アントラーズDAZN
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岩政大樹と内田篤人。内田にとっては17歳のルーキーイヤーから隣に、そして節目節目でなぜか近くにいる存在だった。決して馴れ合うことはなく、それでいてお互いに信頼感を寄せる、兄弟のように不思議で自然な関係。そんな岩政が23日に迎える“弟”の現役ラストマッチを解説することになった。大きな注目を集める試合を前に“兄”は今、どんな心境なのだろうか。長年見続けてきた“弟”の成長と苦悩、そして未来への提言とは――。(インタビュー・構成=青山知雄)

――Twitterで「23日は大変なことになった。何の因果だ」とつぶやいていらっしゃいました。

つぶやきなので特に深い意味はないですけど、引退すること自体は少し前に聞いていました。ただ、ラストマッチがここになることは分からなかったし、想像もしていなかった。冷静に考えると、確かに「もう少しで」と言っていたので可能性はあったんでしょうけど、プレスリリースを見たときに自分が解説を担当する試合だと気づきました。ガンバ大阪DF昌子源の古巣対戦をどう伝えるかにフォーカスしていたところにビッグニュースが入ってきたので、これは大変なことになったなと。率直な気持ちをそのままつぶやいた感じです。

――引退の事実はお聞きになっていたんですね。

本人から電話がありました。正確な日にちは覚えていないですが、1週間くらい前だったと思います。決断を受けての報告に感じたので、僕から掛けられる言葉はあまりありませんでした。どちらかと言えば「決めたのであればいいんじゃないか」という話をしたと思います。彼の人生ですからね。事実をそのまま受け取った感じです。

――報告を受けた後、改めて考えたりしたこともあったかと思います。

(小笠原)満男さんの時もそうでしたけど、鹿島時代のチームメイトが続々と辞めるタイミングではあって、その中でも篤人は少し年齢的には早いわけですが、一緒に苦しい思いを乗り越えて勝ち取った経験、そういう空間を共有した選手たちの引退の報に触れると、虚無感と言いますか、どこか打ちひしがれるような気持ちになりました。電話を切った後の感覚は何と言えばいいのでしょうか。不思議な感情になりましたね。個人的には満男さんの時と少し似た感じでしたかね。

――引退関連の記事に関しては、「よくやった、と思う」とツイートしていました。

言葉の選び方はすごくデリケートに考えました。いろいろな受け取り方をされると思うので、どういう言葉を選ぶかをかなり考えましたね。一番最初に素直な気持ちで浮かんだのが「よくやったな」という感情で、それをそのまま使うかどうかを少し迷ったんです。最終的には、いろいろな人の立場に立った気持ちで想像した後に、僕の率直な気持ちだからいいだろうと考えて出しました。

彼にとってヨーロッパでプレーすることは小さい頃からの夢ではなかったですけど、日本代表になって、鹿島でタイトルを重ねたことでヨーロッパに請われて旅立っていった。そこで適応して、大きく成長して、立派な大人になっていった姿を知っていますし、逆にケガで苦しんだ部分も見ています。18歳からずっと知っていますから、「よくやった」という感情が一番強かった。世間的には僕よりも有名な彼ですから、あまり上から目線に取られなければいいなとは思ったんですけど、意外とそうは受け取られていなくて良かったです。

――話を聞いていて、いろいろな思いがこもっている言葉だったんだなと感じます。

つらつらと長い話をするつもりもなかったですからね。「よくやった」という言葉ですべて語れるような気が、個人的にはしています。

――ここからは「岩政さんが見る内田篤人」について聞かせてください。内田選手にとっては最も一緒にリーグ戦に出場した選手が岩政さんです。最終ラインで長く隣にいたわけですが、そこから見る“内田篤人”は、どういう選手でしたか?

最初は線の細い可愛らしい子、という感じでした。ただ、宮崎キャンプの途中で(パウロ・)アウトゥオリ監督から「開幕スタメンで出す。面倒を見てくれ」という話をされて、そこからは鹿島のスタメンとして扱い、一緒に結果を出さなければいけないという目線にシフトしました。当時、まだ17歳でしたけどね。

最初はどうやれば思い切ってプレーをさせられるか。その上で絶対に押さえなければならないポイントがあったので、どういうバランスで彼に接すればいいのかをかなり考えました。プレシーズンの段階ではかなり強く言っていたと思います。当時の僕もまだ若い部類の選手でしたから、今から振り返ると強めに当たりすぎた感もありますけど、当時の自分なりに考えた上での接し方でした。開幕してからは気持ちよくプレーしてもらうほうが結果につながりやすいと思っていたので、かなりトーンを落として、逆に彼をうまく乗せながら「いいぞ、いいぞ」という声を多めにしていたと思います。

この接し方が彼にとってどうだったかは、僕には分かりません。ただ、それにうまく適応してきたというか、彼自身も自分のリズムを失わないようにプレーしながら、隣から聞こえるうるさいおじさんの要求を少しずつ消化していく。そういうバランス感覚が非常に優れていたなと。1、2年一緒にプレーをしながらどんどん適応していったところには驚きがありましたね。

――ちなみにどんな要求をしていたんですか?

僕はボールが同サイドにある状況と逆サイドにある状況に対して、一つずつしか要求することはなくて、それを口うるさく言っていただけでした。そこで彼がうまかったのは、僕に言われていることが限定的だと気づいていて、それ以外のことは自由にやっていいと解釈していたんですよね。そういう彼の心持ちが、おそらく良いバランスを生み出していたんだと思います。

――外から見ていても、すごく賢い選手という印象があります。

もちろん、賢いです。先ほど言ったバランス感覚について考えると、若い選手はどちらかに振り切りがちですよね。自分の良さを出そうと躍起になってプレーするか、逆に周りに合わせようとしすぎてしまうか。これを両立できる若い選手ってほとんどいない。それを可能にするのは頭の良さですよね。

しっかりと自分を客観視して、チームの要求と自分がプラスアルファを出すためのバランスが取れる。今年のJリーグでは抜てきされる若手が増えていますけど、鹿島の歴史では高卒ルーキーが開幕からすぐにスタメンで使われることは少ない。篤人はその中でずっと試合に出続けて、パフォーマンスを落とすことがなかったのが素晴らしいと思います。

(出場機会を勝ち取っても)少しパフォーマンスを落として、1回メンバーから外されて、そこからバランス感覚を身につけて、20代半ばでいい選手になっていくケースは多いと思いますが、高卒1年目で開幕スタメンに選ばれながら、そのままそのバランス感覚を持ってブレずにできる選手は、鹿島の歴史の中でもそんなにいない。篤人がそれをできたのは、持ち前の賢さ……言い方を変えればバランス感覚になると、僕は思います。

――長く一緒にプレーした中で、印象的なシーンはありますか?

隣で口うるさい僕に対して、目を見ることなく、片手を軽く上げて反応することですかね。当初は僕の要求に対する素振りが、あまりに素っ気なかったんですよ(笑)。試合中にほとんど僕のほうを見ず、片手をチラッと上げて、そのまま次のプレーに移っていく。最初は自分の言葉が彼に響いているのかが分からなかった。

ただ、これが彼なりにバランス感覚を失わない手法だったんですよね。言われていることはしっかりと消化できていて、できていないときに言われていると理解したんだと思います。

だから自由にやれるポイントもすでに見つけていて、試合中にいちいち先輩の言葉に反応しすぎることもなく、全く反応しないわけでもなく、自分で消化できているという反応が彼の素振りに現れていたんでしょう。少しずつ一緒にプレーをしながら、1年弱の間に僕なりの要求をほぼすべてピッチで表現できるようになっていたので、その印象が一番強いです。

――その後、ともにリーグ3連覇を成し遂げ、日本代表としても南アフリカ・ワールドカップに一緒に選出されました。長い時間をともに過ごしてきたと思いますが、その後の変化や進化はどうご覧になっていましたか?

2008年に岡田(武史)さんが監督になってから日本代表に選ばれるようになりました。そこからですね、彼の苦悩が始まったのは。2007年にリーグ戦で大逆転優勝して、二人で抱き合って喜んだ。そこまではガムシャラにやっていたところはあったと思います。ただ、代表に入り始めて、そこですぐに使われ始めて、彼のサクセスストーリーが、普通では考えられない速度で進んでいった。

彼は小さい頃からそこを目指してやっていたタイプではなかったから、突然の周りの変化に対して、器用な子ではありつつも、おそらく内面はパンク状態になっていたと思います。2009年、2010年あたり、海外移籍する前の鹿島では、体調を崩してパフォーマンス自体はそれほど上がっていなかったという印象です。

その状況に何とか粘って粘って、南アフリカまで行って、シャルケに移籍するところまでが、彼のキャリアの第1章でしょうね。そこまででもすでに大きな浮き沈みがあったわけですけど、外から見れば、代表に入り続けて、鹿島でも試合に出続けてタイトルも取っていた。2008年から2009年の途中くらいまでは、まだガンガン行けていましたけど、2010年の夏にドイツへ移籍するまでの最後の半年間はかなりキツそうでした。

――その頃、何か言葉をかけたことはあったのでしょうか。

彼の体調を気にしながら、僕は僕で試合に勝つという逆算から、彼をどのようにカバーしようか、どのような声掛けをしようかと考えながらやっていただけです。体調のことを聞いても仕方がないですし、「大丈夫か」という言葉は掛けたと思いますけど、真剣に話し込むと、それで逆に落ち込む感じもありました。

隣にいる選手が体調不良で吐き気をもよおしながら試合をしていて、走れていない状況下で、彼に対して厳しい言葉を投げて鼓舞すればいいのか、逆に優しい言葉で包んであげるほうがいいのか。そこの判断をずっと迷ってはいました。最終的には、僕はあまり強く言えなかったと思います。それが彼にとって、その時の鹿島にとって良かったかどうかは分からないですけど、当時の彼の苦悩に対しては、なかなか厳しく接することができなかったですね。

――それから内田選手はドイツに渡り、ヨーロッパで活躍して鹿島へ戻ってくることになります。戻ってくるという決断、戻って来てからの内田選手はどのようにご覧になられていましたか?

これはほとんどの人が知らないと思いますけど、彼が鹿島に帰るという決断をした日に僕はドイツにいて、その一報をかなり早い段階で知ったんです。これは縁なのか、運命なのか、よく分かりません。不思議なことに、彼の節目に接することが多いんです。2010年のワールドカップが彼のサッカー人生の中で最初の大きな苦悩でしたよね。本大会直前でサブに回されて、そこから試合に出られないという経験をした。僕は最後の23人目で滑り込んで南アに行ったような形で、もしかしたら役割なんて篤人の引率みたいなものでしたから。そんな状態になっている彼と一緒にずっと練習をしていました。

その後、先ほど言った鹿島に帰ると決めた日のことです。ウニオン・ベルリンで再起を図っていた中で、練習中にケガを負ってしまった。そのケガの日に僕はたまたま取材に行っていて、目の前で彼がケガするのを見ていました。そして練習後、ケガを負った後に取材をしながらいろいろな話をしていたんですけど、ちょうどロシアワールドカップが10カ月後くらいに迫っていた時期で、最後の望みを懸けて、鹿島でもう一回やりたいという思いを固めていった。そのケガの日が「鹿島へ帰る」という方向に一気に流れ出した日だったんですね。

そういった部分も含めて、彼の不意に訪れる苦しい経験の場所に、なぜか一緒にいるということがありました。鹿島に帰ってからは、帰ってくるという決断をしたサッカー選手を日本で、鹿島で迎え、何とか最後まで全うできるようなサッカー人生であってほしいとの思いで見ていただけです。まあ、決断してからそんなにずっと追っていたわけでもないですけどね。

――鹿島に戻ってきてからの苦悩ぶりも感じられていたんですか?

それはそうですけど、それはずっとでした。ドイツでケガを繰り返していた時よりは、鹿島では試合に絡むことも増えて、コンディションも上がって、練習に参加できる時間も長くなってきて、パフォーマンス自体も少しずつ上がってきてるところがありました。あれ? そう考えると、ずっと彼のことを追っていたのかもしれないですね(笑)。

でも、調子が上がってきたタイミングでのケガを繰り返していて、精神的にかなりきついだろうなと感じていました。そういうケガをした日に電話をかけてきたりすることもありました。彼は僕に対して弱音を吐くわけではないですけど、何となくそういう日には、ウニオン・ベルリンでケガをした時に鹿島の話が出てきたように、将来のことを語り出すようなことが増えていました。僕はそういうところで彼の話を聞いてあげるような役にはなれたのかなと思っています。

――そこで何か声をかけたりはしたんですか?

もちろんあります。内容はお互いの胸にしまっておけばいいと思いますけど、将来のことを含めていろいろですね。でも、さっきも言ったように、彼から弱音は一切聞いたことがないです。だから苦しみながらも現役を続けていくんだろうなと思っていました。おそらく彼自身も今シーズンが始まる段階では、ここで終わってしまうことはあまり想像していなかったはずだし、もっと自信があったのだと思います。

――岩政さんからしても、今回の決断は意外だったところもあるんですか?

うーん、意外というわけではなかったですね。彼の心が振り子のように揺れているのは感じていました。言葉にはしないですけど、それは見ていればだいたい分かる。例えば、僕と将来の話をするのは、「引退しようかな」といった話ではなかったですが、現状から少し離れて、未来のことに頭を持っていきたいんだろうなとは想像していました。

そういう部分を感じていたので、この決断は意外ではなかったです。正直、ここ数年は彼から着信があった瞬間に、「もしかしたら……」というのは毎回考えていました。その報告かなと思っていたので、今回は「やっぱりそうだったか」という感じです。

篤人は表向きには強がりしか言わないので、記事にもそういう部分が出ていると思いますけど、本人自体は、例えば今シーズンからキャプテンを下りていることも含めて、頭の片隅にいろいろな想定や可能性があったんだと思います。でも、やっぱり根本は自信を持っていて前向きなので、いい方向に向かっていくと考えていたんでしょうけど、今年に入ってもなかなかパフォーマンスが上がらなかった。

おそらく決定打になったのは、少し前にあったルヴァンカップの清水エスパルス戦でしょうね。僕も試合を見ていましたけど、あまりパフォーマンスが上がっていなかった。シーズンが開幕して、中断明けに出て、そこからメンバーを外されて、もう一回コンディション上げて挑んだ試合で納得できるパフォーマンスが出せなかったことで、張り詰めていた糸がプツッと切れるような感覚になったんじゃないかと思います。

――いろいろな未来のお話をしていたとおっしゃってましたが、岩政さんが期待する内田選手の未来はどんなものですか?

彼が納得する形で、僕は「“内田篤人の道”を進んでほしい」と言います。ただ、そのためには、まずいろいろな情報や知見を広げていかなければいけないとも思うんです。サッカー選手という狭い世界で生きてきて、彼は18歳からこの世界に入っています。

最終的はサッカー界で自分が望む役割をやれるような人材だと思いますけど、その役割を何にするかと考えた時に、世の中のことを知った上でそこを選んでいるのか、この世界しか知らずに選んでいるのかでは深みが違う。彼が何を選んでもいいんですけど、頭の良い人間なので、与えられた狭い世界だけで選択肢を選ぶとしたら、もったいないかな。まずはゆっくり休んで、そのあとは幅を広げて欲しいですね。

――内田選手はちゃんといろいろな物を見て、いろいろなものを感じて、すごく自分の言葉でいろいろなことが言えるタイプの選手であり、人間なのかなと思います。

そうですね。ただ、そういうものも選手だといいことなんですけど、社会に出てからは微妙な局面ってあったりしますよね。彼が自分の道を進もうとしたときに広い視野がないと、その発言が裏目に出ることも出てくるのではないかと。だからこそ幅を持った経験や知識が必要になるんだと思います。

最終的にこうやって現役を辞める決断ができた……という言い方になりますけど、例えば40歳を迎えるまでにまだ8年あるわけです。その8年間で多様な経験をしたほうが、年齢を重ねたときに本当の勝負ができる。これは勇気も必要になりますけど、いろいろなものを取っ払って挑戦してみてほしい。最終的に結果を出す人材になるためには、30代で幅広い挑戦をしてもらいたいと思っています。

――勇気を持って遠回りをするという感じですね。

そうですね。とにかく彼にはしっかりと自分のセカンドキャリアをデザインしてもらいたいですし、どの世界を選ぶにしても、かなりマインドを変えることが求められます。彼自身がマインドを変えて、仕事に向き合っていければ、賢い男だから絶対にいい仕事をするはず。そういう姿勢で挑める仕事を彼が見つけられるかだと思います。個人的にはそんなに急がず、しっかり謙虚さと探究心を持って臨めるものを選んでもらいたいですね。

――本人は将来的には監督をやってみたいという話をしていますね。

そこも篤人が指導者の仕事に対してどれくらいのモチベーションで、本当に謙虚な気持ちで勉強ができるか次第ですね。彼が本当にそういう姿勢で挑むのであれば、これまでのキャリアも含めて面白い人材だと思います。でも、本当に指導者の世界は今どんどん難しい状況になっていて、ヨーロッパからもどんどん指導者が入ってきますし、その中で次々にサッカーのトレンドが書き換えられていく。

彼自身もちゃんとアップデートするためには、たくさんの書物を読んで、たくさんの試合を見て、たくさんの経験をしなければならない。つまり、これまでの自分の概念を一度リセットするくらいの気持ちにならないと。いつまでも自分の成功体験だけでは、指導者はやっていけない。そういうマインドが持てるかどうかでしょうね。

――岩政さんにとって、内田篤人という存在はどんなものですか。

Twitterでも少しつぶやきましたけど、ここもすごく迷った末のフレーズで、やはり僕の中で“弟”なんですよね。最初は仲が良くて、送り迎えもずっと僕がしているような状況から始まって。それで2008年くらいに篤人が日本代表に定着し始めた。一方で自分はずっと目指してきたその舞台に定着できなくて、世間的な立場が変わって、どこか接しづらくなってしまった。じゃれ合うのも少し照れくさくなってしまった部分もありました。

だから、兄弟みたいなものですよ。それから二人で遊ぶことは、ほとんどなかったと思いますけど、そうやって苦しい時には連絡してくれたり、そばにいてあげたり。そういう関係性なので、おそらくこれは運命なんだろうと思います。何か強い絆の中で、これからも引き寄せ合うようなことがあるんだろうな、どこかでまた一緒に戦うことがあるのかなとも思っています。

――さて、運命の試合が週末にあります。ツイートでも「失礼がないようにプロとしてしっかりと」と書いていました。当日はどんな気持ちで迎えることになりそうですか?

試合前の特別な準備はないですよ。何か違うことを話そうとも思っていませんし。いつもどおりフラットに入って、見えたものをしゃべる。お互いに負けられない状況で迎える試合ですし、そこは僕も間違えずに入ろうと思っています。試合中は解説者として試合に没頭しているので、そこは大丈夫だと思いますよ。

ただ、自分の解説スタイルは選手の心理に入ることを大切にしているので、篤人がもしピッチに出てきて、対戦相手に僕から鹿島の3番を継承した昌子源がいたら、どういう感情になるんだろうという一抹の不安はあります。それはそれで仕方がないです。終わった後のセレモニーとか、大勢が決した状況で篤人が出てくるような展開になると、別の感情が湧く可能性はありますね。

――では、改めて試合の見どころを教えてください。

まず両チームとも連敗はできない、かなり切迫した状況で迎える緊張感の高い試合になると思います。どちらが早めに自信と流れをつかむのかが大きなポイントになる気がします。その中で鹿島の選手と昌子のコンタクトがあれば、いろいろなものが出てくると思います。

試合前は強く意識しなくても、局面局面でそれによって何かいろいろなものが頭を駆け巡ったり、選手側も感情を揺さぶられて、何か変わっていくものも出てくる試合になるのではないかなと。そのあたりも普段とは違う流れになる可能性があると見ています。どちらも勝たなければならない試合で、両チームともスタイル、根幹が揺らぐかどうかの瀬戸際にいる気がするので、試合自体は篤人のラストマッチという部分よりも、そういった影響力の強い展開になるのではないでしょうか。

――岩政さん自身も楽しみですか?

楽しみは楽しみですよ。篤人の引退報道があってからは、生活をしていてもどこか空気の揺らぎがあるので、そういう面で普段と違う試合になるだろうなと。そういう試合は久しぶりですね。もちろん解説をすること自体は変わるわけではないですが、やっぱり取り巻く状況が違うと、そこに集う人の感情が変わる。この試合は、それによって引き起こされるものがある舞台なんだろうなとは思います。

インタビュー・構成=青山知雄

1977年6月27日、愛知県生まれ。2000年代前半から数多くのJリーグ、Jクラブ関連媒体に携わり、月刊誌『Jリーグサッカーキング』やtoto予想サイト『totoONE』の編集長を歴任。鹿島のリーグ3連覇はすべて優勝特集を担当した。現在はDAZNグループで国内外のコンテンツ制作に従事。

明治安田生命J1リーグ第12節 放送予定

日時対戦カード会場放送予定
8月22日(土)18:00清水エスパルス vs 横浜FC アイスタDAZN
8月23日(日)18:00名古屋グランパス vs 川崎フロンターレ 豊田スDAZN
8月23日(日)18:00サガン鳥栖 vs 北海道コンサドーレ札幌 駅スタ試合中止
8月23日(日)19:00鹿島アントラーズ vs ガンバ大阪 カシマDAZN
NHK BS1
8月23日(日)19:00浦和レッズ vs ヴィッセル神戸 埼玉DAZN
8月23日(日)19:00FC東京 vs 湘南ベルマーレ 味スタDAZN
8月23日(日)19:00横浜F・マリノス vs サンフレッチェ広島 日産スDAZN
8月23日(日)19:00セレッソ大阪 vs ベガルタ仙台 ヤンマーDAZN
8月23日(日)19:00大分トリニータ vs 柏レイソル 昭和電ドDAZN

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