1980年のマドリー市郊外。そこではヘロインとドラッグが若者たちの間で流行し、家庭崩壊が深刻化していた。これはそんな場所で成長を遂げていった一人の少年の物語である。少年は私でも、あなたでも、フェルナンド・トーレスでも、コケでも、誰でもいい。
少年は友達の兄弟たちから注射器を差し出されても目もくれず、ひたすらボールを追いかけた。赤白の、アトレティコ・デ・マドリーのユニフォームを着ながら。彼には天気も暑さも寒さも関係なかった。昨日のアトレティコの試合結果がどんなものであっても関係なかった。とりわけ、レアル・マドリーとのダービーを相手に負けたときにこそ胸を張った。逆境に抗った。
「ママ、今日はアトレティのユニフォームを着ていくよ」
少年がそう語り、母親は咄嗟に両手で頭を抱える。彼女は分かっていた。小学校やスーパーマーケットやパン屋で、自分の可愛い坊やがマドリーサポーターの嘲りの対象になってしまうことを。だが少年だってそんなことは分かっていた。そんなことなど、どうでもよかった。少年は内気で、争いごとを好まない性格だったが、それでも誇りと反逆心を体の中で養っていた。彼は直感的、本能的に知っていたのだ。負けたときにこそ赤白のユニフォームを着て外出し、その姿を誇示しなくてはならないことを。
■少数派として過ごす日々Getty Images
少年は学校で、ほかの41人の少年少女たちと授業を受けていた。女子は12人で、フットボールに関心がないどころか嫌っていたようにさえ思えた。そして残り30人の男子の中で、アトレティコを愛していたのは、たった3人ぽっち。そのほかが好きな色は……もちろん、白。真っ白だった。
白の連中とは、フットボールについて口論をするだけ無駄だった。3人で27人を相手にできるわけもない。しかしながら、赤白の3人はフットボールの本当の匂いを嗅いでいた。2週間に一回、当時のアトレティコの本拠地ビセンテ・カルデロンに通っていたことで。一方、白の連中はソシオになれずチケットも取れず、テレビで観戦するのが関の山だった。赤白の3人はもうそこから、「人生の異なる捉え方(アトレティコの標語の一つ)」をしていたのだった。
1990年代のマドリーダービー。アトレティコはチームもサポーターもパウロ・フットレにすがり(彼はその魔法のようなプレーでマドリーの本拠地サンティアゴ・ベルナベウを沈黙させた)、強大なるキンタ・デル・ブイトレのマドリーに立ち向かった。1987-88シーズン、セサル・ルイス・メノッティが率いたアトレティコはベルナベウでのダービーで4-0というスコアで勝利したが、ルイス・アラゴネス率いるアトレティコも1991-92シーズンに同じ舞台で、同じチーム相手にコパ・デル・レイ優勝を果たしている。
赤白が白に勝つことは稀にしか起こらない。善人が勝つのは基本的に映画の中だけなのだから。しかしアトレティコが何度負けようと、そのために赤白の子供たちが学校で何度馬鹿にされようとも、その後にはいつも新しいダービーがやって来た。子供たちは意思の強さと反逆心を鍛造して、その新たなダービーに新たな希望を見出した。彼らは「信じることを決して止めなかった(ディエゴ・シメオネの名言)」のである。そして前述の通りアトレティコはときにマドリーを打ち破り、「信じる」ことの価値を伝えていた。現実世界でも、映画のようなことは起こるものだ。
ダービーに勝った翌日、少年は赤白のユニフォームを着て、誇らしげに学校へと向かった。そして、もし次にチームが負けるならば、勝ったとき以上に断固としてユニフォームに袖を通した。信念の強さは、つまずいたときにこそ試されるのだから。
Getty Images
■14年間ダービーに勝てず
1995-96シーズン、シメオネが選手としてプレーしたアトレティコはラ・リーガとコパ・デル・レイの二冠を達成。だが下部組織を解体したり簡単に監督の首を切ったりとやりたい放題だったヘスス・ヒルが会長だったあの頃、クラブに安定の二文字はなく、砂漠の放浪が始まることになった。1999-00シーズン、アトレティコは史上初のラ・リーガ2部降格を経験する。
地獄の2部に落ちても赤白の人々の信じる気持ちは変わらず、クラブの会員数は1部にいた頃よりも増えた。そして、フェルナンド・トーレスが17歳でデビューを果たして希望の象徴になったチームは、2001-02シーズンには1部復帰を決めている。だが1部に戻ったアトレティコは、ダービーでまったく勝てなくなってしまった。降格シーズンにマドリーを下して以降、ダービーは引き分けか敗戦する試合となってしまい、気がつけば2000年代が終わって2010年代に突入していた。そこにあったのは、長い長い渇きと屈辱の日々。マドリーサポーターに「品位あるダービーのために、もっとふさわしいライバルを募集」という横断幕を掲げられたことさえあった。
あの少年は、もう大人になっていた。ここでは、例えばあるスポーツ紙のアトレティコの番記者になっていると仮定しておこう。日々練習場とスタジアムに通う彼は毎シーズン、最低2回行われるダービーにいつものように希望を見出し(または希望を見出させる記事を書き)、その後に失望を味わった。自分たちより金持ちで、自分たちより獲得タイトル数が多く、自分たちよりサポーターの数が多く、紙面でもより多くのページが割かれるクラブに数の正義を押し付けられる悔しさを、何度となく味わってきた。
それでも、やはり信じて努力していれば、いつかは報われる日が来るのだ。シメオネが監督としてアトレティコに帰還してから1年半後の2013年5月、彼らは再びベルナベウを舞台としたコパ・デル・レイ決勝で、再びマドリーを打ち破っている。ここから監督として伝説をつくり上げることになるシメオネは、こんなことを語っていた。
「人生には困難が立ちはだかっていると常々言われる。ああ、もちろんあるさ。しかし、この選手たちは困難をチャンスに変えられる。チャンスから勝利の可能性を見つける。そして勝利の可能性を見つけられさえすれば、勝つんだ。信じて、努力すれば、できるんだよ」
あの少年だったアトレティコ番記者は、まるで自分の言葉を記すかのように彼の言葉をタイピングした。キーボードには涙と鼻水がついていた。アトレティコは現実で、逆境に遭いながらも、苦しみながらも懸命に闘っている人々と、確かにつながっていた。
■勝つからから愛するのではないGetty Images
アトレティコサポーターの少年は、アトレティコの番記者(あくまで仮ではあるが)となり、そして子供ももうけた。赤白のユニフォームは今やほとんど着ない。が、そのカラーは肌に彫るタトゥーよりも深く心に刻まれている。彼は5歳からアトレティコを愛し、これまでマドリーサポーターから数々のからかいや嘲りを受けながらも耐え続け、一つのカラーを守ってきた(赤白は二色じゃなく一色だ)。彼は「人生の異なる捉え方」に誇りを持っている。それは大金でも、14個のチャンピオンズトロフィーでも買えないもの。2017年のダービーで掲げられた「お前たちみたいじゃないことが誇り」という横断幕や、昨年亡くなったアトレティコサポーターの偉大な女流作家、アルムデナ・グランデスの言葉が、そうした気持ちを代弁している。
「サンティアゴ・ベルナベウ(マドリー元会長)は、マドリー市民のくせにアトレティの人間になることは、金持ちになれるのに貧乏を選ぶことだと言っていた。この言葉は、一つの町を反対の方向へ運ぼうとするとき、克明に現れるその本質を見事に突くものだ」
「たとえチャンピオンズリーグのトロフィーが100万個あったとしても、まったく足りない。不屈、情熱、豪華絢爛な物に対して持たざる者であることを誇れる反逆心とは、天秤にかけることなどできない」
「一体、誰が金持ちになれるのに貧乏を選ぶのか? 大勢のマドリー市民、そして私である。なぜならば、マドリーという町も勇気とハート(アトレティコのイムノの一説)で成り立っているのだから」
日曜日、また新たなダービーが、通算293回目のダービーがやって来る。フェルナンド・トーレスでも、コケでも、どこかのアトレティコの番記者でも、ほかの40代のサポーターでもいいが、赤白を心に刻む者はソワソワと落ち着かない気持ちでいる。彼らはアトレティコに勝ってほしくてたまらない。ただし、勝つからアトレティコを愛しているわけではない。彼らの不屈、情熱、反逆心、負けたときにこそ赤白を誇る信念は永遠だ。
彼ら、いや、私たちはアトレティコとともに生きている。アトレティコに人生の意味を重ね、希望を信じて、闘っている。
文=ハビ・ゴマラ(Javi Gomara)/ スペイン紙『ムンド・デポルティボ』アトレティコ・デ・マドリー番
翻訳・構成= 江間慎一郎
関連記事
●バルセロナ、ジョルディ・アルバが左サイドバックの3番手に…W杯出場にも黄信号が灯る
DAZNについて
DAZNなら好きなスポーツをいつでも、どこでもライブ中継&見逃し配信!今すぐ下の記事をチェックしよう。